1)

階段を一歩一歩登る。一段一段数えながら登る。一、二、三、……
十三段目にたどりつくと、そこには開け放たれた扉がある。屋上への扉。それと も、異界への門か。
「我をくぐる者、すべての希望を捨てよ」
書かれていない文字が何故か読める。

「門」をくぐり、屋上に出る。強く吹く風がひどく心地良い。
真っ直、フェンスに近づく。フェンスを乗り越え、数十センチしかない縁に立つ。
バランスを失なわないように注意しながら靴を脱ぎ、きちっと揃えておく。
下界では人が騒ぎ始めている。
視線を上に転じる。くすんだ色の空。
両手を大きく広げて、思い切って飛ぶ。
一瞬の浮揚感。このままどこまでも翔べる気がする。
すぐに運動はベクトルを変える。ニュートンは俺を見逃してはくれない。
見上げると、そこには地面がある。
またたく間に地面が近づく。近づく。近……

いつもそこで目が覚める。多量の冷汗が気持ち悪い。シャワーを浴び、着替える。 時計を見ると出掛ける時間だ。

俺は強い破壊衝動を持つことがしばしばある。「取りかえしのつかないことをし たい」という欲求が強いのだ。それは対象を選ばない。俺にとって、ガラス細工 を持った手を離したいというのと、電車の入ってくるホームで一歩前に踏み出し たいというのと、同じホームで人の背中を押したいというのは同列のことである。

もちろん、そのどれをも実行はしない。しかし、俺の中にそういった衝動が起こ ることと、その衝動を抑えるのに苦労することは事実である。

(階段を一歩一歩登る)
俺は喫茶店で感極まる程まずいコーヒーを飲みながら、窓の外を眺めている。こ のコーヒーカップを窓に叩きつけたら気持ちいいかなと思いながら。
(……四、五、六……)
「待ったぁ?」
そうか、俺はこの女と待合わせていたのだ。忘れていた。
「いや、全然」
(十一、十二、十三)
「ずいぶん、久し振りねぇ。元気だった?」
「う、うん。まあね」
(我をくぐる者、すべての希望を捨てよ)
突然、この女の首を締めたくなる。嫌いな訳でも憎んでる訳でもないのに。
「ねえ、知ってる? A子さぁ、B君と結婚したんだってぇ」
(両手を広げて、思い切って飛ぶ)
誰だそれは。単なる記号じゃないか。
「へえ、意外だね」
(見上げると、そこには地面がある)
「いいなあ。あたしもそろそろ結婚してもいいかなあ。なんちゃってね」
(我をくぐる者、すべての愛を捨てよ)
「ちょっと、どうしたの? 顔色が悪いわよ?」
(我をくぐる者、すべての未来を捨てよ)
「ねえ、大丈夫? ひどい熱。すいませーん、誰か救急車呼んでくださーい」
(頭の上から地面が近づく。近づく。近……)

ここはどこだ? 目の前に階段がある。見覚えのある階段だが、一体どこで見たの だろう? そうだ、夢に出てくる階段だ。
階段を凝視めながら一歩踏みだす。足音が意外に大きく響く。そしてもう一歩。 下を向いたまま、俺は段々足を早める。そして十三段目。
「我をくぐる者、すべての夢を捨てよ」
見えない文字でそう書かれた出口をくぐり抜け、進むべき方向を見た。
そのとき、いつもの夢とは違う光景が見えた。俺より先にフェンスによじ登ろう としている奴がいたのだ。
「なんだ、てめえは? てめえなんざ俺の夢に呼んだ覚えはねえぞ」
俺は怒鳴りながらそいつをひきずり降ろした。そいつは激しく抵抗していたが、 呻き声をあげてその場に崩れ落ちた。

腹を押さえてのたうち回る奴を呆然と眺めていた俺の右手から何かが滑り落ちて いった。見ると、いつの間にか持っていたナイフが血にまみれて転がっている。 俺の手も血にまみれている。
とにかく、邪魔物を排除した俺はゆっくりと振り返り、フェンスをよじ登った。 フェンスを乗り越えるときに血で濡れた右手が滑って俺はそのまま落ちていった。

「格好悪いったらありゃしねえ」
そうつぶやいた瞬間、俺は地面に激突し、頭蓋骨が砕け、脳漿が飛び散り、内蔵 は破裂し、口から血を噴き出し、無意味な痙攣を繰り返し……

そのときようやく目が覚めた。立ったまま白昼夢を見たようだ。
「今回はやけにハードだったな」
そうつぶやいた俺の目の前にフェンスがあった。妙にべとつく右手を見ると真赤 だった。

振り返るとそこには……


つづく