2)

容疑が保留されたとはいえ、母は疑いの目を持って見られるようになった。帝国 への忠誠を示す必要を感じた母は、しかし、自分自身で示す手段を持たなかった。 そのため、私を軍人にすることを思いついた。私は帝国への忠誠心など特になかっ たが、母のために軍人になることに同意した。そして四年後に私は幼年学校に入 学することになる。

模範的な生徒を装いながら、私は無難な日々を送った。そのうち、父を奪った共 和主義なるものがどんなものであるか知りたくなった。そしてミイラ取りがミイ ラになった。そこにある理想を私は否定できなかったのだ。「一通り調べたら興 味を失なった」というふりをしながら、私は記録に残らないように慎重に調べた。

その間、母は相変らず世間の白い目に晒されていた。同時に、自分の容疑を晴ら すために息子を利用していることを気に病んでいた。何年もの月日とともに母の 心労は重なってゆき、私の士官学校進学が決まった頃、母は自殺した。

「もう、お前を束縛しないから、好きなように生きなさい」

という遺書を残して。

母がどこまで知っていたのかは今となっては分からない。自責の念にかられてい ただけなのか。あるいは、私が共和主義に興味を持ったことを知っていたのか。 生前の母は何も語らなかった。もちろん死んだ後も。

遺書は私以外の人間の目にとまることはなく、母の死は事故として処理された。

母の死を父に伝える術を、私は持たなかった。


つづく