我が人生

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1度目の東京オリンピックが始まる2ヶ月前、お盆明けの月曜日の早朝に私は生まれた。ホーエンベルグとコーンが密度汎関数理論の記念碑的な論文を発表した年でもある。お盆明けというのは、全くの偶然というわけではなかったようだ。出産予定日を過ぎていたのに、「お盆の間は人手が少ないので、充分な世話ができない」という理由で、陣痛促進剤などの処置が取られなかったという。そんなわけで、お盆明けに私は生まれた。

それから数年は、国道沿いの家に住んでいた。まだ、歩けもしないうちから、国道を這って横断しようとして、バスを止めたこともあるらしい。その道は、今では旧国道になってるようだ。

その後、引っ越した。

小学校に通い出した頃、近所の小川で橋から落ちた。手摺りのない橋から小石を川面に投げようとして、落ちたのだ。小石だと思ってたのが実は土の塊で、手の中で崩れていったのを覚えている。そのときの傷跡は、額と右の向こう脛に今も残っている。その橋では、数年後に自転車ごと落ちたおじさんがいた。さらに数年後、手摺りがついた。

自分では覚えていないのだが、小学2年生の頃、集中的に勉強したことがあるらしい。近所の腕白坊主に力で勝てそうにないから、頭で勝つつもりだったらしい。

それ以来、10年以上は、意識的に勉強した覚えはないが、本はよく読んだ。当時はジュブナイルと呼ばれていた少年少女向けの空想科学小説を主に読んでいた。今でいうと、ライトノベルのSFということになるだろうか。市民会館(今では公民館)の図書館で、家族の分を含めて限度枠ぎりぎりの2週で5冊を毎回借りていた。

図書館に行った帰り道、自転車で本を持って帰っているとき、バランスを崩して橋の鉄骨に左肩が激突したことがある。そのときは「痛いなあ」で済んだのだが、その後、鉄棒をしてるときに、左肩に激痛が。病院で診てもらったら、鎖骨にヒビが。0.1mmのヒビが1mmに拡がったとか。小学校の修学旅行は、左肩を保護した状態で行った。

小学校高学年の頃、円がどんな関数で書けるのかを研究してた。最初は、円の4分の1を書いて、いくつか長さを測定し、それを通る多項式(という言葉は知らなかったが)を計算していた。やがて、三平方の定理を使って値をチェックする方法を思いついた。そのときは、多項式以外でも関数と言えることを知らなかったので、三平方の定理を式変形した時点で正解に辿りついていたことに、気がつかなかった。

中学に上がった頃から、兄達の教科書をよく読んでいた。勉強というより単なる趣味である。新聞に載る共通一次(後のセンター試験)の問題は、数学なら半分以上は分かった。

その頃は、2人の兄と同じ工業高校に進学するつもりだった。しかし、化学の授業が1年のときにしか無いということを知って、急遽、普通科に進学することを決めた。そのときは、化学が好きだったようだ。兄弟3人とも、普通科を薦められてたぐらいなので、学力的には問題なかった。

アインシュタインの相対論に出逢ったのは、中学の終わりか高校の始めの頃だと思う。図書館で借りた通俗解説書がきっかけだ。それ以前にも相対性理論という言葉は知ってたし、断片的な知識はあったが、まとまった解説を読んで驚いた。単純な思考実験と、高校生でも充分できる式変形。そこから導かれる奇妙な結果。常識さえとっぱらってしまえば、非常に分かりやすい内容だった。そして私は、常識なんてものを信用していなかった。かなりあとになって、「常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう」というアインシュタインの言葉に接したとき、海よりも深く納得したものだ。

たまたまその頃に得た知識をもとに、相対論の結果の一つであるローレンツ変換が回転の行列に似ていることはすぐに分かった。実際、時間を虚数にすれば回転の行列と一致することに気付いたときは、非常に興奮したものだった。相対論の発表直後にミンコフスキーが指摘していたということを後に知るまで、そのワクワク感は止まらなかった。

そのときに出逢ったのは、相対論の中でも特殊相対性理論というものである。それを拡張した「一般相対性理論」の存在は早くから知っていた。しかし、通俗解説書では、概要や主要な概念などは分かっても、詳細がさっぱり分からない。実は、特殊相対論とは対照的に、物理学科の大学生でもなかなか手が出ない程、高度な数学を使ってるのだった。

そんなわけで、大学は物理学科を選んだ。ディラックの「一般相対性理論」を読んでから、なんとなく分かった気になった。少なくとも式変形はそれなりに出来るようになった。なので、それをもとに、何か新しいことが出来ないかと、色々試していた。……、主に授業中に。当然、最初の1年は、うけた授業の半分しか単位が取れなかった。

大学院に進む頃に、Misner・Thorne・Wheelerの「Gravitation」(通称電話帳)に出逢い、さらに、シュッツの本をいくつか読んで、幾何学的実体を軸とした微分幾何学に触れて、少し理解が進んだ。

そんなことをしてると、本来は相対論系の研究室ではないのに、修士課程の研究は、一般相対論関係のものになった。博士課程では、実質的な指導教官が代わって、そのままの方向にはならなかったが、それでも、特殊相対論が関わる研究をした。

博士課程修了後、アカデミック・フリーターになった。その頃には、相対論から離れた研究を始めた。相対論と量子論が混ざると式が途端に面倒臭くなるってのもあるが、研究室本来の密度汎関数理論が面白くなったってこともある。

適当なポストがなかったから始めたアカデミック・フリーターだが、四半世紀以上続けるとは思わなかった。その間、留学したり、別の研究室に居候するこちになったり、骨折したりと色々あったが、なんとか生きている。

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