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「伝達型文章の作文技術」:04-02

04: 考え方

04-02: 常識と信仰告白


常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう.
アルバート・アインシュタイン

常識とはそんなに平凡なものではない. ヴォルテール

哲学者の三木清によれば, 常識の上位概念として良識があるという. 常識人が 常識を無謬のものとして受容し, 常識を盾にして非常識を断罪するのに対し, 常識に疑問を持てる知恵が良識なのである.
ウィキペディア 「常識」の項

・根拠としての常識

常識を根拠とした主張をする場合がある. ク リティカル・シンキングの立場から言えば, それは, 無根拠に等しい. 「当た り前だから当たり前だ」と言ってるようなものである. それを当たり前ではな いと思う人に対しては, 説得力のかけらもない.

常識は, おおむね二通りの意味で使われる. 一つは, 慣習や社会通念の意味で ある. もう一つは, 広く共有された知識の意味である.

慣習等を根拠とする場合は, その慣習を当該問題に適用してよい理由が必要で ある. そのためには, 問題設定の範囲内で, それを慣習として通用させるため の根拠が必要になる. 「それが常識だ」といういう主張は, それが常識たり得 ることを正当化しなければ無意味なのである.

広く共有された知識の場合も注意が必要である. 相手が質問してきた場合, そ の人とは共有してないと思った方がよい. それはおそらく, 相手が無知なのか, 知識の共有範囲がそれほど広くないか, そもそもその知識が間違ってるかのい ずれかである.

前二者の場合は, その正しさを相手に説明するしかない. どっちの責任かなど ということにいくら時間を費しても, 主張が相手に伝わらなければ無意味であ る.

最後のケースでは, 自分自身で間違いを理解しなければ, 話は始まらない. 多 くの人が正しいと言ってることが, 本当に正しいとは限らないのである.

もっとひどい場合には, 自分で当たり前と思ってるだけで, 実は常識ですらな いこともある. 自分が常識だと思ってることは, ことあるごとにチェックすべ きである. どの場面で通用するのか. どの程度の強さの説得力を持つのか.

常識を解体して, より根本的な説明するとき, 別の常識にぶつかることがある. その常識を相手と共有できなければ, さらに解体すべきである. 相手と共有で きるまでこれを繰り返すのである.

・信仰告白

とはいえ, どう考えても, それ以上解体して説明できないところまで行きつく ことがある. 自分では正しいと思っても, その正しさをちゃんとは説明できな いのである.

そういう状況であることを説明することを, 私は, 「信仰告白」と呼んでいる. その段階で「信仰」を共有してない人には, 説明不可能だという, 事実上の敗 北宣言である. その「信仰」を納得してもらえなければ, 説得できない. 相手 が悪いのでも自分が悪いのでもない. 仕方ないことである.

だからといって, 信仰告白に到った議論が無駄というわけではない. 自分の常 識の是非をチェックする最高のチャンスである. そうやってギリギリまで常識 を解体することは, そうそうない.

そのような意味で, 信仰告白は, 軽々しくするものではない. 本当にそれ以上 の解体ができないときにのみ, するものである. 浅いレベルで諦めてしまうの は, 伝える意志が弱いか, 技量不足であるかのどちらかだ. 前者の場合は, 折 角のチャンスを生かしていない.

科学的な説明をする場合には, 信仰告白など必要ないと思う人もいるかもしれ ない. それは, ちゃんと遡って説明しようとしてないだけである. 例えば, 物 性物理で, 第一原理まで遡って説明しようとすると, 曖昧な部分が残る場合が ある. 定性的に説明した気になっても, どのファクターがどの程度効くかの考 察がちゃんと出来てないのである.

そもそも, 科学の世界に, 絶対的に正しい説明というものはない. せいぜい, 今のところ大丈夫な, とりあえず正しいとしてよい, という程度のものである. そのような自覚なしに「正しいから正しい」といくら力説しても, 説得力は生 まれない.

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