これは戦後に発見された「トリューニヒト家の金庫」に収められていた、ヨナ・ トリューニヒト氏の手記の抜粋である。この金庫には氏の父であるヨブ・トリュー ニヒトの数々の悪業の証拠も共に収められていた。
氏は手記を書き上げた数ヶ月後、いわゆる「スタジアムの虐殺(797年6月)」の余 波に巻き込まれて死亡した。死亡した位置がハイネセン記念スタジアムから数km 離れていて、その死に疑念を持つ者がいないではなかったが、詳しい調査を行な い得る状況ではなかった。
この金庫は、その後、幾人かの手を経てダスティ・アッテンボロー氏の手に渡る。 アッテンボロー氏はこれに大幅な脚色を加えて発表したが、その中で、「ヨナ・ トリューニヒト氏の死亡に際し、父ヨブ・トリューニヒトの黒い手が動いた可能 性」が示唆されている。
これに対し、ユリアン・ミンツ氏が「ヨブ・トリューニヒト氏が動いた証拠は何 一つない」と反論したが、後のドラマ化、小説化のほとんどはアッテンボロー解 釈を採用している。