2)

後で足音がする。何かが迫ってくる。僕は恐くて振り返ることができない。しか たがないから前を見て階段を登る。走り出すと襲いかかられるような気がして、 一歩一歩踏みしめるように階段を登る。
一段目、二段目、三段目、……
耐え切れなくなって、徐々に速足になる。
……、八段目、九段目、十段目、……
十三段目を登るとそこには扉がある。
「恐怖に向かい合え。さもないと、それはお前の背中を乗り越える」
扉の言葉を見てもなお、僕は振り返ることができない。扉を開けて飛び出す。
そこは屋上だ。
真っ直フェンスに向かい、それでも振り向けず、フェンスを乗り越える。
背後で怒鳴り声が聞こえる。日本語で、しかも一つ一つの音ははっきり聞こえる のに、意味は僕の頭をすりぬける。
足元に遠く離れた地面がある。
僕は結局一度も振り返らずに、一歩前へ踏み出す。
「ともかく、これで恐怖から逃れられる」
頭上から地面が近づく。

僕はそこで目が覚める。いつものことながら、あまり気持のいいものじゃない。

僕は被害妄想の気がある。「誰かが僕を憎んでいる」いつもそんな気がするのだ。 その誰かは必ず僕の背後にいるのだ。確かめることさえできれば楽なのだが、僕 は振り返ることができない。

幼い頃、「かごめかごめ」のオニになるのが大嫌いだった。「うしろの正面」を 確認するのが恐くて泣き出すことが何度もあった。

(後で足音がする)
僕は喫茶店で死んだコーヒーを飲みながら、窓の外の信号が変わる数をテーブル に映る黄色で数えている。
(何かが迫ってくる)
「待った?」
声が聞こえた気がして思わず顔を上げたが、そこには誰もいなかった。待ち合わ せる相手もいないのだから当然のことだが。
(僕は階段を登る)
僕は視線を戻し、また安逸な自分だけの世界に戻る。
(恐怖に向かい合え。さもないと、それはお前の背筋を駆け登る)
背にした壁の向こうが気になる。
(恐怖に向かい合え。さもないと、それはお前を足から喰い尽くす)
「お客さま、顔色が悪うございますが、大丈夫でございますか?」
(振り返っても無駄だ。それはお前の背後に回り込む)
「お客さま? お客さま?」
(もう遅い)

ここはどこだろう? 目の前に階段がある。夢で何度も見た階段だ。へたり込みそ うになる程の安心感と目の前が暗くなる程の恐怖が同時に沸き起こる。
(これは夢だ)
一段目に足をかける。靴を脱いだ足からは足音がしない。(これは夢だ)
四段目を登ったところで、背後に足音がする。(これはゆめだ)
「恐怖に向かい合え。さもないと、それはお前の背中にへばりつく」
扉を開け放ち、屋上に踊り出る。(これはユメだ)
フェンスをよじ登る。(コレハユメダ)
「ナンダテメエワテメエナンザオレノユメニヨンダオボエハネエゾ」
背後で怒鳴り声がする。(モウスグユメカラカイホウサレル)
もう少しのところでひきずり降ろされてしまう。(ダメダダメダダメダダメダ)
お腹に衝撃を受けて、急に体から力が抜けた。(ユメニツカマッテシマッタ)

崩れ落ちながらお腹に手を当てるとぬるぬるした。その手を目の前にかざしてみ ると赤かった。随分前に見た松田優作の演技を思い出しながら、意識が遠のいて いった。(チガウチガウチガウチガウ……)

そのとき目が覚めた。
妙に重い瞼を開くと、くすんだ色の空が見える。お腹を押えた手がべとつく。動 き難い首を横に向けると、フェンスの向こうに落ちていく男と目が合った。

僕は全てを理解した。


つづく